管理人プロフィール


名 前mitty
年 齢秘密(昭和40年代生まれ)
家 族妻と子供2人
出 身福島県
現住所静岡県
鉄道との出会い中学のとき、クラスの中でチャレンジ2万キロが話題になり、それまで大して興味が無かった鉄道に興味を持つ。
それから,小学館のコロタン文庫の駅名全百科と時刻表を毎日のように読みふける。

<このホームページについて>


パソコンについてはほとんど素人の私が、ホームページをつくろうと思い、エクスメディアの「ホームページ入門」を購入。
約1年がかりでやっと公開できるようになりました。
「ホームページビルダー」などを使っていないので、技術的には稚拙なものだと思いますが・・。
内容についてもたいしたことはないし、他の方のホームページの方がすばらしいと思いますが、お許しください。
画像も追々増やしていきたいと思います。

ここで、私の鉄道趣味についてちょっと語りたい(大げさ?)と思います。
前述の通り「チャレンジ2万キロ」から鉄道趣味に入ったので、比重としては「乗りつぶし」が第一でした。
その後スタンプ、切符にも自然と興味が出て、それなりに集めていきました。順位的には 1.「乗りつぶし」2.「スタンプ」3.「切符」4.「写真」5.「車両」といった具合です。
「乗りつぶし」は、チャレンジの期間が10年間ということ、ローカル線の廃止がどんどん進んでいることなどの外的要因があり、また当時お金を持っていない中学生〜高校生だったということもあり、 短期間で効率よく、安く済ます、というのが鉄則でした。だから、今にして思えばずいぶんもったいないことをしたなあと感じています。 それは、このホームページを見れば感じると思いますが、ホームページの素材になるような駅の写真などは思ったほど撮っていません。例えば北海道の駅は、かなり建て替えられてしまいましたが、1983年に初めて北海道に行った当時は、 まだ木造駅舎がみんな健在でした。廃止された線の駅舎や駅名標なども、終着駅以外はあまり撮っていません。何故にあまり写真を撮っていないかというと、1つにフィルム代・現像代がかさむということ(ただでさえ起点・終点駅で自分の顔写真を撮らねばならないので)、そしてその頃は、これほどまでに合理化や改廃が進むと思っていなかったということ、 さらに、一般の乗客に混じって駅舎や駅名標の写真を撮るのがこっぱずかしいなどの理由がありました。また、当時は乗っているだけで満足で、あまり資料的な写真は撮る気がなかったのも事実です。 しかし、今こうやってホームページをつくっていると、あまりに少なくて寂しくなります。ですので2万キロの証明写真を一部紹介しています。一部の写真はぼかし処理されています。
「スタンプ」への興味は、後半かなり比重が増しました。「わたしの旅」収集は勿論ですが、特に古いスタンプ、これは、“駅を降りて尋ねてみなければあるかどうかわからない”という賭けの部分の楽しみが大きいと思います。駅を降りて駅員さんに「スタンプありますか?」と尋ねて、「あるよ」と言って事務所の中から出してくれたときは、まさに至福の瞬間でした。 特にDJスタンプを発見するのが楽しみでした。
だから、降りてみたらスタンプが無いどころか無人駅だったりして、そんな“賭けに負けた駅”で1時間以上待つなんてこともよくありました。
「切符」は、主に入場券収集ですが、やはりお金の関係で前半は終着駅中心の購入でした。後半は多少お金に余裕がでてきたので、途中駅や気に入った駅も買うようになりました。 鋏は入れてもらったり入れなかったりですが、後半はあまり入れなくなりました。
「写真」は、前述の通りであまり多くを語れません。駅の写真は駅舎を正面から撮ったものより、車両とホームとか、ホーム側から見た駅舎が圧倒的に多い。やはり資料的な写真にあまり興味が無かったからでしょう。
「車両」への興味や知識は皆無に等しいです。特急列車の写真は、人並みに上野駅で撮りましたが、キハ○○とか、○○○系とか、クモハなになにとか、全く知りません。旧型客車が好きなくらいです。

<想い出の失敗・・>  


乗りつぶし旅行には失敗はつきものです(と思う)。恥を忍んで、自分の過去の失敗を記しておこうと思います。

その1<寝過ごし>
貧乏旅行だったため、乗りつぶし当初は、夜は夜行か駅寝がほとんど。後半は体力的にきつくなってきて、安宿に泊まることも増えたけど、やっぱり降りるべき駅で寝過ごし、慌てて計画変更した、なんてことはたくさんありました。 列車って、よく寝られるんだよねえ・・。

1.郡山駅(おが4号)  1981年
これは、記憶にある寝過ごし第1号である。この日は、東北ワイド周遊券で磐越西線、日中線などに乗り、夜行で一晩明かし、翌日は会津線などに乗る予定だった。当時の東北本線は夜行急行の宝庫であった。当然、自由席つきの急行が殆どで、それを宿代わりにしない手はなく、 計画では郡山−福島間を行ったりきたりして夜を明かし、翌朝の急行ばんだいで会津若松へ向かう予定だった。が、机上の予定はそうであっても、中学生の自分にはそんな体力は無かった。
何回かの乗換え(私の仲間の中では“夜間乗換え”といわれる技)はうまくいったが、 福島から乗ったガラガラの臨時急行「おが4号」のシートに腰を沈めたとたん、眠りに落ち、気がつくと周遊区間外の白河に着くところだった。慌てて降りてはみたものの、まだ早朝5時前。人っ子一人いない待合室で茫然自失・・。
注)その後日、再び周遊区間に戻り、乗りつぶしの続きをしました。

2.佐呂間駅  1983年
北海道旅行中は、その殆どを夜行急行で過ごした。3月の春休みシーズンであったから、当然座席に座れないことも多く、寝不足になってしまう。この日は、夜行の大雪を遠軽で降り、朝4時台の名寄線列車に乗った。計画では、中湧別で湧網線に乗り換え、佐呂間で交換する上り列車に乗り換え、湧別へ向かおうとしていた。が、気がつくと佐呂間の先の仮乗降場に停まっていた。 こうなるとこの日、一日2往復の湧別枝線に乗るわけにいかず、結局そのまま湧網線を乗りとおし、計画を練り直した。
注)中湧別−湧別間は5日後に乗りました。また、この北海道旅行中、他のどっかの駅でも寝過ごしたような気がするが、忘れてしまった。

3.新見駅  1983年
伯備線で伯耆大山から新見に向かっていた私は、新見から姫新線に乗換えるつもりでいた。しかし、前夜の夜行鈍行「山陰」には、途中駅から乗り込んだため座れず、旧客のデッキで過ごしたためほぼ一睡もできず、案の定寝過ごした。気づいたときは木野山駅だったから、かなりの寝過ごしであった。
注)伯備線は初乗りだったが、新見で降りるつもりだったので、伯耆大山で2万キロの証明写真を撮っていなかった。結局伯備線全線に乗り通してしまったが、2万キロの踏破申請はかなり後になってしまった。

4.大分駅(日南号)  1984年
夜行の上り急行「日南」に乗っていた。その時は、大分で降りて豊肥線始発に乗ることにしていたが、気がつくと次の停車駅、別府だった。が、珍しくお金に余裕があったのでタクシーで大分まで行き、予定通り計画を遂行した。

・・他にも何度かあったと思いますが、今記憶にあるのはこのくらいです。

その2<写真失敗>
乗りつぶすということに於いてはあまり関係ないが、当時チャレンジ2万キロをやっていた身としては、写真失敗はかなり痛かった。今ならデジカメでその場で確認して撮りなおせるけど、当時は現像から返ってくるまでドキドキものだった。今にして思えば、それはそれでスリリングな一つの楽しみでもあった。

失敗した駅(古い順)・・海芝浦(鶴見線)、高崎(高崎線)、川崎(南武線)、青森(東北本線)、上砂川(函館枝線)、谷川(加古川線)、厄神・三木(三木線)、粟生・北条町(北条線)、野村・鍛冶屋(鍛冶屋線)、小山(水戸線)

トホホ・・なほどである。初めの頃は、父にもらった古いカメラを使っていて、操作が今ひとつわかっていなかったために起きたミス(フラッシュも無かった)。その後、キャノンのオートボーイを買ってもらい、失敗は減るかと思ったが、逆に増えた。特に寒かったりすると動きが悪くてよく止まった。また加古川線とその子分たちの失敗は、フィルムが空回りしていたため。いつまで経ってもフィルムが終わらないので気がついた(が、遅かった)。 他人に頼んで撮ってもらって失敗したのは意外にも小山駅のみ。しかし、現像してみたら自分の顔だけで、駅名標が全く入っていなかったのでガク然としました。

その3<金がない!>
旅行には当然所持金が必要ですが、貧乏旅行だからか、はたまた計画性が乏しいのか、金で失敗したことがあります。

1.高崎線の帰り、電車賃が足りない!
まだ乗りつぶしを始めたばかりの頃、日帰りで八高線と高崎線に乗りにいきました。その帰り、高崎から大宮までの切符を買ったのですが、その先の電車賃が足りないことに気づきました。持ってきていると思っていた金額が財布に無かったのです。 結局、親に迎えに来てもらい、乗越し分を精算してもらいました。

2.食費がぜんぜん足りず拒食!
初めて友人と泊りがけで清水港線などに乗りに出かけたときのこと。旅費の計算などまともにせず、これ位あれば足りるだろう、と安易に考えていたから、途中で金が無くなり(その友人は持っていたが)、食べるものさえ買えなくなってしまった。 旅の出だしの頃は、駅弁などを食って優雅に過ごしていたが、途中から安い菓子パンや惣菜のコロッケなどしか買えなくなり、挙句に軽い拒食症?になってしまった。覚えているのは、沼津駅の駅ビル内で安い食パンのようなものを買ったのだが、 口にしようとすると吐き気がして受け付けなかったことである。あまりの急激な貧食に胃がおかしくなってしまったのだと思います。

3.宿泊費、足りるかなあ・・
これは、1984年春の東北旅行の時のこと。三陸鉄道の開業に合わせて、3月31日に久慈で泊まり、翌朝始発の一番列車に乗る計画を立てていた。私は、旅行時には大金を持ち歩くのがいやなので、旅行貯金を兼ねて、郵便局でその日必要な分だけ下ろして使う、 というようにしていた。が、その時はたまたま週末で、旅程上郵便局に寄れず、所持金残額が7千円前後になってしまった。その日予約した宿は、たしか田代旅館といって、久慈駅近くの比較的安い旅館だった。予約した時に見た本の料金表示は、6千円〜のような 表示だったが、部屋によって料金が違ったり、サービス料が加算されたり、宿では結構思った以上に払わされることが多いから、もしかして全額払えないかも・・・と不安になりながら投宿した。
恐る恐る渡された明細を見たら、6千円きっかりで、助かった・・。しかし,次の日も日曜日だったかで金を下ろせず、夕飯がガムのみだった・・・。

その4.<その他の失敗>
どうでもいいことを含めて、思い出すまま、記していきます。

1.東室蘭駅  1983年
思い出すだけで恥ずかしい・・。ホームの階段で5段くらい足を踏み外してこけたこと。隣に停まっていた列車から丸見えだった。女子学生もたくさん乗っていた。

2.姫路駅  1983年
姫路でコインランドリーを探していたら、思ったより時間を食ってしまい、乗る予定にしていた飾磨港線に乗り遅れそうになり、猛ダッシュした。

3.ドリーム号 1986年
ドリーム号で大阪へ友人(当然男)と出かけた時。私はコンタクトレンズを使用しているのですが、その時はそのまま外さずに寝てしまいました。連続装用ができない普通のレンズだったのに・・。 翌日は姫新線に乗り、その途中までは大丈夫だったのですが、急に目を開いていられなくなってしまった。無理やり開けると眩しくて涙が止まらなくなり、どうしようもない状態。・・これでは旅が続けられない。 結局、予定を変更して米子に泊まることになった。しかし、男の手を引いて駅や街を歩かなければならなかった友人には悪いことをしたと思う。
注)コンタクトは面倒でも外して寝ましょう。

4.コンタクトレンズ紛失  1988年
急行「だいせん」の寝台車に乗っていた私は、終着の出雲市駅に着く少し前に洗面所で身支度をしていた。
コンタクトレンズ(ハード)を付けようとして、ケースから出そうとしたとき、「ピン!」と跳ねてどっかに飛んでしまった。
ふつうは少し探せば見つかるものなのだが、なかなか見つからず、車庫に回送される直前まではいつくばって探した。 結局見つからず、その後の旅行は片目コンタクトで過ごす羽目になった・・。

その他、思い出したら気まぐれで書きます。